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アリタ川の戦い (1068年) : ウィキペディア日本語版 | アリタ川の戦い (1068年)
アリタ川の戦い(アリタがわのたたかい、)は、ペレヤスラヴリ付近のアリタ川(現イリティツャ川)河畔において、キエフ大公イジャスラフ、チェルニゴフ公スヴャトスラフ、ペレヤスラヴリ公フセヴォロドの率いるドルジーナ隊と、シャルカンの率いるポロヴェツ族とによって行われた戦闘である。 ==歴史==
===前史=== 『原初年代記』における、ポロヴェツ族に関する最初の言及は1055年の頁であり、ペレヤスラヴリ公フセヴォロドと、ポロヴェツ族とが和平条約を結んだ、という内容である。ルーシの地(キエフ大公国領)南方の遊牧民・トルク族が、1060年にルーシの軍勢に追いやられたのち、ポロヴェツ族の勢力圏はルーシの地の南方に接するようになっていた。1061年には、ポロヴェツ族の一軍が、かつてのキエフ大公ウラジーミル1世、ヤロスラフ1世の設備した防衛線(沿スーラ川防衛線、沿ローシ川防衛線)を突破し、ルーシの地へ侵入している。 1068年より、キエフ大公イジャスラフ、チェルニゴフ公スヴャトスラフ、ペレヤスラヴリ公フセヴォロドの3兄弟は、ヴォルィーニ公イーゴリ、スモレンスク公ヴャチェスラフの2人の弟が死亡したのち、その所領であったヴォルィーニ公国、スモレンスク公国領を、自身らの所領に加え、ルーシ全域をその管轄化に収めていた。また、1067年のネミガ川の戦い(ru)で、ポロツク公フセスラフ率いるポロツク公国軍を破り、和平交渉の場において、フセスラフを捕虜としていた〔Всеслав Брячиславич // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона (ブロックハウス・エフロン百科事典): в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.〕。
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